コラム すべての困難を乗り越えてミャンマーと日本のために。

すべての困難を乗り越えてミャンマーと日本のために。

我々は人材豊富な国ミャンマーで、政府認定の人材送り出し機関として圧倒的最大手となりました。
それは、ミャンマーというあまりにも過酷で困難な国における、我々の忍耐と挑戦、そして地道な努力の結果だと思います。
我々が人材送り出し事業をスタートしたミャンマーは、2021年の政変により誰もが尻込みする国となってしまいました。ほとんどの日系企業がミャンマーから撤退し、ミャンマーのビジネス環境は悪化の一途をたどっています。
我々はそんな劣悪な環境で、誰もが「できるわけがない」と考えることに挑戦し、やり抜き、成功させることをモットーとしています。
もちろん、成功には責任をどこまで引き受けるのかを問われます。
ひとつは、日本の労働力不足を解消し、日本の発展に寄与することです。
そしてもうひとつは、政変後苦難に喘ぐミャンマーの方々に日本で働くという夢と希望を与えることです。
いずれも責任重大です。でもこうしたことをやり遂げていくことが我々の目標であり、使命なのです。私の性分でいうと、何か社会的・経済的な問題が起こっているとしたら、何とか手を差し伸べたい。それが困難であればあるほど、解決するのは自分しかいない、自分が生まれてきた意味はそこにある、と考えるのです。
では、なぜ日本企業を守ろう、ミャンマーを助けようという思いに至ったのか。それは私の生い立ちからくる、キャリアの積み上げの途中に遭遇した出来事の中に、回答があります。簡単ではございますが、最後にそれをお伝えしておわりの言葉にしたいと思います。
大学を出て就職した会社はCSK(現SCSK)というコンピューターの会社です。そこで始めたのが、プリンターのカートリッジを扱う事業です。
わかりやすく言うと、一つのプリンターを買うとそのプリンターメーカーが専用のカートリッジを指定してきます。プリンターを動かすためにはその指定カートリッジを使わざるを得ません。そこでプリンターメーカーは、選択肢がないユーザーの弱みにつけ込んでカートリッジの値段をものすごく高い価格にして大儲けするわけです。
それではあまりにもプリンターユーザーが不利です。そこで私は「皆が値段が高すぎて困っているプリンターのカートリッジを安くする」という事業を、22歳のときにCSKで社内ベンチャーとしてスタートしました。
例えばインクジェントプリンターをお使いだとおわかりになると思いますが、カートリッジそのものは小さくその中に入っているインクの価値はわずか10円程度です。それが1000円くらいで売られています。消費者は10円のインクを100倍の1000円で買わされているのです。高いと思ってもカートリッジをはめないとプリンターは動かない。
そんな高価なものを買わされて困っている人たちを助けるためにスタートさせた事業です。
しかし当時私が勤務していたCSKは業績絶好調。日本でソフトウェア業界初の上場企業ということもあり、世間から大きな注目を集めていました。そのCSKのカリスマ創業者である大川功社長から、ことあるごとに「お前らカートリッジなんかやめてまえ、ソフトをやれ」と言われ続けていたのです。あまりにもやめろ、やめろと言われるので、25歳のときに一緒にやっていた部署の仲間4人と共に独立をしました。その後、30歳のときに株式会社オフィックス(現株式会社スリーイーホールディングス)を創業しました。同社はもちろん最初はプリンターのカートリッジの事業だけでした。
現在もこのプリンターのカートリッジの事業は続けています。しかし私は20年ほど前から「将来印刷需要は激減する」と予想していました。
今後は事業の多角化をしないと経営が立ち行かなくなるという思いから、事業の多角化に取り組んだ中の一つがミャンマー事業でした。
ミャンマーを初めて訪れたのが2012年です。
その年というのはミャンマーが民主化された次の年でした。軍事政権で鎖国状態だったミャンマーが2011年に民主化されて国全体が活気に満ちていました。
まさに日本の明治維新のときの開国のような状況でした。誰の目から見ても、急激に経済発展することは明らかでした。
そして2013年からミャンマーでいろんな事業をやりましたが、ことごとく失敗。そのうちの1個だけ、うまくいった事業がありました。それが、このミャンマー人材の送り出し事業です。
日本に働きに来る外国人は、自国と日本の所得格差、つまり日本に来たら給料が何倍になるかが海を超え、故郷を遠く離れて日本で働く最大のモチベーションです。
かつては中国が送り出し国トップでしたが、それがベトナムに代わり、そしてその次はミャンマーになる。
そうした強い予感のさなか、突如2020年より新型コロナが蔓延し外国人の日本への入国禁止措置がとられ、人材送り出し事業は完全にストップしました。そして2021年にはミャンマーで政変が起き、我々の人材送り出し事業も壊滅的な打撃を被ることになりました。
政変。自分の想像以上に過酷な現実がそこにはありました。通貨の大暴落、物価の急上昇、失業者増大、徴兵制開始などミャンマー人には次々に苦難がふりかかっています。そうした逆境にあえぐミャンマー人たちに、私は日本で働くという夢と希望を与えたいと本気で考えています。そして日本に働きに来るときのミャンマー人の金銭的負担を最小にし、ミャンマー人の夢の実現を後押ししたいと考えています。
同時に、日本の労働力不足を解決し日本の発展に寄与する。そして送り出し機関のリーディングカンパニーとしての使命と責任を果たしていきたいと思います。
ミャンマーの人が日本に来るときというのは、一種、昔の日本の出稼ぎ労働の話に近いようにも感じています。
ミャンマーにいても何ともならない現実があります。まさに日本で夢をつかむという話ですが、日本の出稼ぎ労働と似ています。
これは私の生い立ちからくる気持ちかもしれません。私は三重県出身です。三重県の地方の三男坊で生まれました。兄貴が二人いて、いらない子どもだと言われて育てられました。あなたは間違って生まれてきたとか、女の子が欲しかったとか。そう言われれば言われるほど、ここにいても何ともならないだろうなと思い、高校卒業後は東京の大学に行き、就職先で社内起業からではありますが、事業を始めて今があります。
ミャンマーにいてもどうしようもない、そういう人たちが一念発起して日本に出てくるというのは、私が東京に出てきたときの思いと結構つながるところがあって、一念発起して出てくる人たちをなんとか助けてあげたいという気持ちが私の心の中に強くあります。
私の両親は田舎の貧乏人でした。特に親父は非常に貧しい家の生まれで、子どもの頃は住む場所がなく、親戚の納屋に住んでいたそうです。私のじいさんは病気がちで、親父は小学校のときから働いていたらしいです。頭は良かったのでしょうが、小学校しか行けず、中学にも進学できなかったと聞いています。そんな貧しくてろくに学校にも行けず、苦労を重ねた親父の無念を何とか晴らしてあげたい。私は親父の生まれ変わりのつもりで、親父ができなかったことを成し遂げなければならない思っています。
私が経営の主軸にしているのは京セラ創業者であり、経営の神様とも称される日本の著名な実業家・稲盛和夫氏です。稲盛氏の経営者の会も入っていました。一言では言えないほど大きな影響を受けました。そのおかげをもって、常に社会・経済の動向を見極め、挑戦し、改革を行ってきた結果、たどり着いたのがこのミャンマー人材事業です。
今後においても現状に甘んじることなく、私を必要としていただく日本の企業の皆様、ミャンマーの皆様のために、経営者としての正道を、これからも一歩一歩、実践してまいりたいと思います。

ミャンマー・ユニティ
グループCEO 北中 彰

ミャンマー・ユニティ
グループCEO 北中 彰

1960年生まれ。中央大学法学部法律学科卒。大学卒業後、コンピューターサービス株式会社(現SCSK株式会社)に入社。のち1990年12月に株式会社オフィックス(現株式会社スリーイーホールディングス)を創業し、代表取締役就任。トナーカートリッジにおける環境問題に着目し、リサイクルトナー事業のパイオニアとなる。
2012年よりミャンマーに進出。のち2013年5月ミャンマーに「ミャンマー・ユニティ」を設立し、最高顧問に就任。2019年12月にミャンマー国内での総送り出し人数No.1となり労働大臣より表彰を受ける。現在までに累計1381名の技能実習生を日本へ送り出している。現在では、ラスト・フロンティアと呼ばれるミャンマーで有数の日本企業最高顧問として、日本の少子高齢化による人材不足問題に着目し、全国で技能実習や特定技能など外国人雇用に関する講演会および情報発信を精力的に行っている。
そのほか、3E Global Co.,Ltd Chairman、3E Yangon Co.,Ltd Chairman、株式会社サップ代表取締役、オフィネット・ドットコム株式会社代表取締役。

お気軽にお問い合わせください

受け入れを検討されている企業の方

監理団体・登録支援機関・人材会社の方